戦国無双完全攻略

豆知識

鉄砲は種子島の鉄砲の100年前にすでに伝わっていた

今から約100年前に和寇によって大陸からもたらされたと言われています。このときに使われていた銃を指火式銃といわれ、火縄銃の引き金式ではなく、筒の根元に開いている穴に火薬をつめて火をくべるという原始的なものだった。
和寇達はこの銃を海戦で使ったりしていた。

本能寺の変

1582年(天正10)織田信長が備中高松城包囲中の豊臣秀吉を救援しようとして本能寺に宿泊した時、先発させた明智光秀が叛逆して丹波亀山城から引き返し、信長を襲って殺した変。 【大阪夏の陣】 1615年(元和元年5月)徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。徳川方が冬の陣の和議条約を守らず大阪城の内濠のも埋めたので、大坂方の将士は墳激の余り豊臣秀頼を擁して再び兵を挙げたが、家康・秀忠の大軍に破られて、秀頼・淀君以下自刃した。

長篠の一斉射撃はウソだった?

長篠の合戦で、織田軍は大量の鉄砲を用いて武田軍を破ったというのは一般的に知られている事ですが、これに異議を唱える人もいます。そのとき召集された鉄砲隊は臨時のものだったので、同時に1000人もの兵士を動かす方法が準備されていなかったのではないかというのです。また、この鉄砲隊は、前の者が撃ったら後ろへ回って弾込めをし、その間に違う者が撃つ、というのを繰り返す作戦をとりましたが、これもそんなにうまくいかなかったのではという説があります。信長は、従者にいつも3丁の鉄砲を持たせて、交互に撃つのを練習していたので20秒ほどで一連の動作ができましたが、臨時に集められた兵士が果たしてそんなにうまく射撃できたのか、という事です。勝利は「馬防柵」と、「武田軍が鉄砲の威力を軽視した事」があいまって生まれたとも言えます。

光秀の連歌に込められた野心

明智光秀は、本能寺の変の直前、連歌の会を親しい者で催していますが、その時の歌が「ときは今 天(あめ)が下しる五月哉(かな)」です。これは普通に解釈すると「季節は今、雨が降る5月であるよ」となりますが、実はこれには光秀の野望が隠されているといいます。実は「とき」とは自分の出身である「土岐」の事で、「今こそ土岐氏が天下を取る時だ」という意味だというのです。光秀はそのあと、これを含め100の歌を収めたものをある寺に奉納して戦勝祈願を行い、本能寺の変に至りました。

武田信玄について

武田信玄が最も危なかった時期というのは一説には、息子である武田義信が反意を 抱いた頃とされている。その頃の信玄は自分の部屋に便所があった。 一説には便所で生活していたともされている。 ともかく自分の寝所に便所があったということである。 すなわち彼は用心深過ぎるというのか、猜疑心の固まりというのか、ということです。 それから武田信玄が当主の時代に甲斐に城が存在しなかった理由としては、 国人達の反感を抱かせないためとも言われています。 それから信玄が上洛を果たすことなく信州で死去した理由としては川中島での 損害ではなく、在地領主制を打破することができなかったということが、 最大の理由と考えられています。

大坂冬の陣で豊臣方が長蛇を逸した時

大坂の陣では豊臣方に現役大名こそは味方に付かなかったものの後藤又兵衛、長宗我部盛親、明石全登、塙団右衛門、そして真田幸村等名だたる猛将が付いています。実は幸村たちは「大坂から主力部隊を出撃させ京都を占領、近江で徳川を向かえ撃つ」という積極案を提出、大野治長に此れを却下され大野が主張する篭城戦になりましたが、援軍を期待できない篭城戦は自滅に等しく幾ら天下の大坂城であってもいずれはすり潰される運命に有ります。もし幸村の積極案により「京都が豊臣に占拠された」と全国流れたら徳川方大名も暫く状況を観望しようと考える者が出ないとも限りません。圧倒的不利を打開する為の策でした。又兵衛や幸村は大野らより戦いの勘所を心得る歴戦の勇士ですが、大坂方に於いては新参者であり、淀殿の意を受けた大野が京都占拠に出撃するという賭けを嫌った為にこの積極案が却下したと考えられます。此れで豊臣に勝ちの目は皆無に等しくなります。大坂冬・夏の陣での幸村らの奮戦は後世に残るところですが最後は統一された行動を取ることなく其々の死に場所を求めて出撃し秀頼、淀殿、大野の3人は自決して大坂の陣は終結します。

兄弟愛(笑)

ゲーム中で真田兄弟が敵味方に分かれているシナリオがありますよね、あれは真田家を残すための苦肉の策でした。この際に時の二大勢力に身を寄せることにし、兄信之のほうは家康の娘を娶り徳川につきました。この娘というのが実は本田忠勝の娘だったのを家康が養女にしてから嫁がせたのです。こうすることにより真田を中から支配しようともくろんだのでしょう。

関ヶ原の戦いでは、当然どちらに付くかで将来が決まるので家臣含め真剣な話し合いが行われました。真田昌幸・幸村と信幸の親子分裂も其の一つですが、関ヶ原前後に於いて諸大名は様々な方法で御家存続を求めました。そのうち無双でも登場した何人かの武将の場合をご紹介します。 真田と同じく分裂によって御家存続を図ったのに利家の子前田利長・利政兄弟がいます。利長は東軍に組し、利政は途中で理由をつけて西軍に寝返っており、どちらが勝っても前田家は残るように画策しました。 墨俣一夜城イベントの時、材木を盗みに行った蜂須賀小六の子蜂須賀家政、家政の子至鎮親子も家政が西軍に、至鎮が東軍に属しています。因みに家政は関ヶ原前に高野山に剃髪して登ってしまい、狡賢く家臣高木法斎だけを西軍の勝ちの場合を想定して西軍に送り込んで御家存続を図っています。 一般武将で色々なところに登場する堀家は(この時は秀政ではなく秀治なんですが)家臣堀直政と直寄が主導権を握っており直政は東軍、直寄は西軍に付くと主張し、直政の「自分は勝敗を図って誤ったことは無い。

羽柴と名乗ったわけ

秀吉は、幼いときに日吉丸と名乗り、29歳の時に木下籐吉郎秀吉と名乗りました。38歳の時、羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)と改名しました。この羽柴は信長の有力武将であった、丹羽長秀と柴田勝家の2人の名前から1字ずつもらって付けたものです。このころ秀吉は丹羽や柴田を尊敬し、付けた名前である

真田六文銭の意味

真田幸村のハチマキ(?)についている「六文銭」にはある意味があります。
それは、六文銭は三途の川の渡り銭と言われており、真田の兵は死を恐れずに戦う心意気としたので必ず持っていたと言われています。

伊達政宗

「伊達男」の由来は政宗です。政宗は派手なものをよく身に着けていたので人々からこのように呼ばれていたそうです。現在でも同じような意味で使われています。

↑間違い指摘
伊達家は当時はイダテ氏と称していましたので、政宗が伊達男の直接の語源ではありません。だてという言葉はもともと誇示するという意味合いで使われていました(気だて、男だて、賢だてなど)、伊達の字を当てるのはイダテからダテに変わった頃に伊達氏の下男が遊侠の徒になったのを「伊達の小六」と読んだのが始まりです。

↑これに対する意見
伊達男の由来は伊達政宗ではなく「イタリア人」=「伊達利亜」からきてます。

秀吉と寧々

秀吉は信長に馬の世話係として仕える事になり城へ初めて赴いた時に寧々と知り合う。そして二人の結婚の世話をしたのは何と濃姫である。しかし実際の結婚式(式と呼べるほど盛大なものではなかったそうだが)では仲人は濃姫ではなく代理の者がおこなった。信長や重臣と顔を合わす事の多かった秀吉とは言え、さすがに一人の部下の結婚に大将の妻が顔を出すわけにもいかなかったようだ。

秀吉の名前

秀吉はその生涯で日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉と3回名前を変えますが、「吉」の字は外しませんでした。羽柴秀吉に変える際は、丹羽長秀の「羽」、柴田勝家の「柴」、そして明智光秀の「秀」を使い、名将の名にあやかろうとしたそうです。ちなみに豊臣というのは彼の先祖に由来するそうです。

真田一族と寄生虫

寄生虫の「サナダムシ」の名前の由来は、幸村の父の真田昌幸が太刀の柄の部分につけていた、「真田紐」の形状に似ていたためだといわれています。

武田騎馬軍団は本当に存在したのか

武田信玄ほど県民に愛される戦国武将も稀です。しかし山梨の方には申し訳ないのですが「信玄が絶対君主の如く君臨、家臣は一枚岩に纏まっていた」という説は武田騎馬軍団共々虚構です。甲斐は有力国人が割拠する土地を苦労して一つに纏めた処であり非常に自立性が高く、信玄は絶えず家臣団の動向を注意しつつ誘導して経営を進めていました。「女房と寝る時も刀を手放すな」と語った程の用心深さを伺えます。勝頼が小山田信茂にすら見捨てられてしまったのは、中央集権を急ぐあまりに国人を軽んじたところにあると見られます。 武田騎馬隊にしても、武田が騎馬を数多く所有していたのは事実ですが騎馬はあくまで上級指揮官の機動力上昇の意味合いがあり其れを一つにして「騎馬隊」として組織した事はありません。日本産馬は競馬などのサラブレッドより2周りほど小さく、鎧兜をつけた武者が颯爽と駆けるのは無理な事でした。何故虚構の武田騎馬軍団が広まったかというと、明治陸軍で長篠を教材とした時に、武田にも近代騎馬組織があったと仮定し「騎兵隊は有力な火器を持つ敵陣地に攻撃を仕掛けてはならない」という教訓を導き出す為だと考えられています。しかし騎馬軍団が虚構であれ、10カ国にもまたがる大領国を支配した信玄の偉大さには何ら遜色は無いのであります。

忍者とは

忍者や忍びと聞くと、ゲーム中の服部半蔵や時代劇の忍者のような服装をした人々を思い浮かべるだろうが、実際の忍者は旅人や商人に扮して敵国の城下町などで、情報収集をしたり、嘘の噂をばら撒いて敵国を混乱させるのが主な任務だったようだ。そもそも、ゲームに出てくるような明らかに「私は不審人物です」とアピールするような服装で敵国内で活動する訳はないのである。

何故浅井長政は反旗を翻したか

無双本編でも織田徳川と朝倉浅井の2勢力VS2勢力の姉川の戦いは登場しており、結果的に織田徳川軍が勝利し、其の3年後に浅井長政は戦死しています。享年28から29歳です。実際は織田徳川は圧倒的に織田の力が上であり、徳川は其の配下に過ぎない事より織田徳川連合軍という呼び方は必ずしも正しくありません。対して浅井朝倉は対等同盟と言える物ですが、どちらかというと朝倉のほうが力は若干上です。浅井の娘さんが徳川秀忠の奥さんになったので「朝倉より浅井のほうが奮戦した」という事実に摩り替わってしまったようです。御話を何故此処から立ち上げたかというと「浅井朝倉は対等であった」という事実と徳川と浅井の真反対の行動を考えねば「何故浅井長政は反旗を翻したか」と読みきる事が出来ないからであります。 信長と長政、信長と家康の同盟は信長が尾張1国、家康が三河1国を支配していた時は対等な同盟でありましたが信長が上洛し畿内を支配すると決して対等とは言えず、信長主家康従の形に成りつつあります。此処で家康は現実を直視し、独立大名という立場を一度捨てて、現実的な形で自らの力を蓄えぁ
k$Y$/?%ED@/8"FbIt$GNO2の地位を模索し始めています。しかし同じ信長の同盟者長政は其処まで開き直れず、対等な同盟関係を維持しておきたいという考えが有りました。独立戦国大名という立場にこだわった其の為に「朝倉と敵対しない」という信長の盟約違反を許す事が出来ず反旗を翻したと考える事が出来るのです。もし長政が家康のように開き直ることが出来れば、三河より畿内により近い北近江を支配し、更に信長の妹御市の方を嫁さんに持つ長政が信長政権のNO2になれた可能性は高いといえます。

真田幸村の名前

真田幸村は元服後、真田信繁と名乗るようになった。 しかし、関ヶ原の戦いで父・真幸と信繁(幸村)が豊臣方、兄・信幸が徳川方に別れ戦うことになった。関ヶ原の戦いは周知のとおり、徳川方が勝利したが真幸と信繁は敵方だったために刑罰の対象なったが、兄・信幸の配慮により流刑にて厳刑は免れた。 その際に信幸は真田家の家長を継ぐ証である「幸」を改め、信之と改名している。そこで次男である信繁が「幸」の字を使い「幸村」と名乗るようになったと言われている。

大阪夏の陣で幸村が疑われたわけ…真田丸が城南の出城だったため、徳川方である兄・信之と連絡を取り、敵兵を城内に導くおそれがあったため。

↑追加情報
真田幸村は、実際には「幸村」と名乗ったことは1度も無いという資料が残されているそうです

汗血馬に関する雑学

戦国無双では汗血馬は政宗の乗馬となっているが、もともと汗血馬とは中央アジアに生息する馬で、呂布の馬として有名な赤兎馬も汗血馬の一種という見方もある。 汗血馬は、その名の通り「血の汗」を流す馬であり、原因は寄生虫による出血のようである。また汗血馬=名馬ではないらしい。

忍者服部半蔵

ゲーム中では忍者として活躍している服部半蔵ですが、最初に徳川家康に仕えた際は足軽として仕えたといわれています。 その理由は半蔵の父である保長が息子には立身出世して欲しいと願ったからだそうです。忍者の仕事はあくまでも裏方なので、あまり出世の機会がありませんでした。 しかし本能寺の変後の伊賀越えの際に、徳川家康を無事に帰すために伊賀上忍の血筋を利用して伊賀甲賀の忍者に救援を要請します。 そして忍者達の協力により、無事に伊賀を脱出した家康に功績を称えられ徳川家忍軍の頭領となります。 余談ですが、服部半蔵の本名は服部半蔵正成、そして出身地は伊賀ではなく三河です。

大坂夏・冬の陣

徳川家康は織田信長や豊臣秀吉と比べると人気がありません。其れは秀吉から秀頼の事を頼まれていたのにも関らず、若き秀頼に焦りを感じて大坂の陣により豊臣氏を滅亡させた「腹黒いタヌキ親父」というイメージが現在に残っているものと思われます。(無双でもタヌキ顔ですし)しかし色々と状況等を見ていくと豊臣氏は滅ぶべくして滅んだと見ることが出来ます。以下に其の論拠を示していきます。 大坂の陣の遠因となった方広寺の鐘事件は有名ですが、この事件により家康が豊臣方に「大坂からの転封、もしくは秀頼か淀殿の人質として江戸へ赴く」事のどちらかを求めています。豊臣は此れを無理難題と受け止めたのですが、そもそも家康も秀吉から祖国三河から関東への転封を言いつけれても唯々諾々と従っており、関ヶ原以後の大名は皆住みなれた祖国を離れ大規模なお引越しをしています。人質も同様で豊臣だけが例外でした。しかも家康は其の両方ではなく片方だけを求めているので決して無理難題な事ではないのです。 徳川と豊臣はこうして激突する事になったのですが、豊臣に非常に忠誠心を抱いていた猛将加藤清正はもうこの世の人ではなく、同じく豊臣恩顧の浅野長政、前田利長、池田輝政、堀尾吉晴も既に亡くなっています。豊臣は現役大名蜂須賀家政、佐竹義宣等にも蹶起を呼びかけていますが、清正と同じく豊臣に異常な忠誠心を持っていた福島正則ですら徳川方についています。此れは豊臣には恩義は在るが、現在の大名の地位を保証しているのは徳川で、豊臣へは恩義は在るが其れは過去のものであるという判断からだと考えられます。 豊臣は既に徳川の天下が決定的であったのにも関らず、あくまで「徳川は豊臣の家来である」という意識を捨て去る事が出来ず、例外だというのを貫こうとした為に徳川サイドとしては天下安定の為に例外を認めることが出来ず、結果として滅ぼしたと分かると思います。例えば家康も天下が秀吉に治められるとわかった時から条件闘争を繰り返し臣従することになっています。また伊達や島津は「服従するなら存続を許すが、拒めば討伐する」という戦国の基本道理を理解し、様々な形で秀吉及び家康に服従の意志を表しています。ところが豊臣だけが服従の意志を表しておらず例外な存在有り続けようとしました。

是非も無し

織田信長がよく言う「是非も無し」これの意味を皆様知っているでしょうか?辞書などで調べてみたところ、これは「しかたがない」「どうしようもない」などのあきらめの意味になっています。これだとゲーム中での使い方がちょっとおかしいですね。ゲーム中では「良し悪しを決める価値もない」みたいな意味合いで使われているような気がします。KOEIが間違って使ったのかどうかわかりませんが・・・現代的に意味をとるとそうとも読めますね。ちなみに織田信長が本能寺で死ぬ時に言った言葉は「是非に及ばず」。これも、「是非も無し」と同じ意味だそうです。書籍、言い伝えなどでの脚色で2つに別れたのだと思います。よって、信長はどちらも同じ意味で使っていたもしくはどちらか一つしか使っていなかったと捕らえてよいかと思います。

↑追加まめ知識
これは「今までたくさんの人を殺してしまいうらまれて当然だ。味方に裏切られてしまうのも仕方のないことだ(是非もなし)」という意味らしいです。しかも晩年には自分の食ったみかんの皮が片付けられていない、というだけで世話になっている 寺の小坊主を切ってしまったり、夜中に突然起きて刀をつかみ誰もいない闇の中で「おのれ~わしを呪いにきたのか!!」と、殺した武将の名前を叫びながら一晩中刀を振り回すなど少しおかしくなってしまったようです。


↑さらに追加
やまかん、の件についてです 私も昔は山本勘介からきているのかと思ったのですが(なんで勘だろうとは思ってました…) 「山師の勘」というのを何かで見たことがあったと思います。 お菓子のおまけか何かでこういう言葉の解説をしたものでしたか…。 山師、採掘をする職業ですね。彼らは経験と勘で採掘する場所を決めたのでしょう。 これを読んだとき、私はなるほど、と思いました。 あの武田の優秀な家臣団の中で、軍師として活躍したのですから、先に兵法ありき。ただたまたま名前の文字が同じだった、ということなのか、と。

山かんの語源

最強武将作ってる方は分かると思いますが川中島の武田信玄の横にいるとてつもなく邪魔なやつ「山本勘助」実はあの有名な言葉「やまかん」{山勘}の語源です。かんが鋭かったんですね~

↑これに対する意見
「山カン」の語源ですが、「山本勘助」というのは俗説ですのう。「山男」の「勘」で「山カン」ですな。昔々鉱物などを掘り当てる時、勘に頼ったことからきたようです よ。おまけのしおりに書いてある位ですからなぁ、ウソではないでしょう。軍師が勘にたよるなどとはもってのほかですな。ははは。

嫉妬深い森蘭丸

森蘭丸は、小姓兼稚児として織田信長に仕えていました。 織田信長は蘭丸を可愛がり、蘭丸もまた信長を慕っていました。 稚児としての役割の方が多く、誰よりも信長を慕っていたために、信長の妻である濃姫に嫉妬をしていたそうです。 そして自分が女ならば、と考えたこともあったそうです。

悲劇のヒロインお市

お市は浅井長政に嫁ぎ、後の豊臣秀吉の側室になる淀(幼名茶々)や、後の徳川秀忠の正室になるお江などをもうけるが、次第に織田と浅井は対立し、最後には戦によって浅井家は滅ぼされていまう。 この時お市は娘達とともに信長の元へ帰るが、彼女にはさらなる悲劇が待っていた。 信長の死後、お市は織田家重臣の柴田勝家に嫁ぐことになる。二人は中睦まじく暮らすが、今度は羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激しくなる。そして激しい戦の末、勝家は敗北し、お市は勝家と共に自害して果てたという。 お市は決して幸せな人生ではなかったのだが、お市の娘達は後の天下を統一する人物の妻となり、徳川幕府260年にしっかりと血統を残している。


明智光秀造反の真相とは?

本能寺での明智光秀の造反(裏切り)が無ければ、信長は確実に天下統一を実現していたと言われる。光秀が何故裏切ったかは今日に至るまで様々な説が語られているが、それらを挙げて光秀造反の真相を推測してみたい。 
まず、主な理由として整理していくと大きく分けて二つに分かれる。
一つは、光秀が何らかの理由で信長に怨恨を抱いていたという説。
もう一つは、あと一歩で天下を手中にできる信長を倒せば自分が天下人になれると光秀が野望を持ったという説。
今日ではこの野望説が最も信憑性があると考えられているが、最近、新たな黒幕説というものが浮上してきている。
この黒幕説を挙げると、朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説・羽柴秀吉黒幕説・徳川家康黒幕説などに分かれ混沌としている。中には単におもしろ半分で語られているだけの、いい加減な説もある。これらの中で検討に値する説は朝廷黒幕説と足利義昭黒幕説の二つくらいである。
しかし、これらの説も弱点を抱え定説となるには程遠いのだ。
例えば朝廷黒幕説は何故、皇太子誠仁親王が危険な二条御所から事前に離れていなかったのかという疑問、さらに朝廷と信長の間はそんなに緊迫していたのかという疑問がある。足利義昭黒幕説には、怜悧で現実主義者である光秀が何故、零落している足利氏などに動かされるのかという疑問、そして当時、足利氏を庇護していた毛利氏が何故、計画に参加せず蚊帳の外に置かれていたのかという疑問がある。これらの疑問を解決しない限り、この二つの黒幕説は有力な説にはなり得ないだろう。先に述べたように今日で最も有力な説は光秀の天下に対する野望説であるが、真相は未だ解明されていない。
これからも光秀造反についての論議は続くだろう。

↓追加情報
明智光秀は山崎の戦い後、農民に殺されたという説がありますが、もう1つの説があるのです。その説は光秀は殺されずそのまま生き抜き、南光坊天海と名乗り、徳川家康と手を組むという江戸時代を動かした人物となる説があるのです。何故かというと二人の生年が似ているのです。その上家康の息子・秀忠、孫・家光は光秀が名付け親となるのです。秀忠の「秀」、家光の「光」は光秀という名から一字ずつから譲り受けた名という説があります。しかし、本当かどうかはまだ分かっていません。

↓さらに情報
天海は光秀だとする説の根拠の一つに日光東照宮が挙げられます。日光東照宮は家康の遺命により天海が中心となって建立されましたが、その東照宮の瓦の一部や、祀られている武将像の袴に桔梗紋(明智家の家紋)が見られます。また、日光のいろは坂あたりにある明智平も天海の命名だといわれています。他にも、 ・秩父神社にも桔梗紋がある ・家光の乳母である春日局は斉藤利三の娘 などなど疑惑は尽きません。これらが天海=光秀説、ひいては本能寺の変・家康黒幕説にまで繋がっているのです。 ただし、桔梗紋を使っていたのはもちろん明智家だけではありません。(家康にかかわりの深いところでは、江戸城を開いた太田道灌の太田家も桔梗紋です。) 天海≠光秀でも桔梗紋が使われる可能性は十分あります。 疑いだせば全てが光秀の痕跡に見え、また考えすぎなだけにも思えてきますね。


↓さらに情報
京都府北桑田郡周山寺の「慈眼寺」には、光秀の木像と位牌があります。 そして天海の諱は「慈眼大師」だそうです。 もうひとつ 明智光秀は、天正十年に五十四才の生涯を閉じたといわれています。 ところが、比叡山松禅寺には「慶長二十年、奉寄進願主光秀」と彫られた石燈籠があります。慶長二十年は実に光秀の死後三十四年目なのです

↓さらに追加情報
どうやら「信長が比叡山焼き討ちをしたときに、光秀の母が殺されたため、信長に対する憎悪心を抱いていた」と言う説があります。

↓最終意見
明智光秀の母が殺されたのは一説には丹波平定時に波多野家を降伏する条件と して一時人質とされたのですが、織田信長が約束を反故にして、当主である 波多野秀治を安土城下の寺で処刑したことからその復讐として磔にされたとされて います。 それから斎藤利三については、かつては稲葉一鉄の配下とされており、 稲葉一鉄が織田信長を通して明智光秀から斎藤利三を返してもらおうとした。 しかし明智光秀が断ったのでその時、織田信長から叱責(一説には折檻)を受けた。 その時の恨みも謀反の一因とされています。 また武田平定時に明智光秀が失言したことから織田信長に罵倒(一説には折檻) を受けた。これも明智光秀の謀反の一旦と言われています。 更に当時の近江坂本と丹波の領土を召し上げて、当時毛利領であった 出雲・石見の転封という処置を受けて切羽詰ったということも考えられます。 敵領ゆえに切り取り次第ということです。

川中島の戦いでの信玄と謙信の一騎打ち

川中島の戦いでの上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは誰もが知っている戦国の名場面であろうが、当然の事ながら総大将同士の一騎打ちなど現実の戦でありえる訳が無い。しかし元になる出来事は存在する。ゲーム中でもミッションで登場するが、川中島の戦いでは信玄が別働隊を使用し西条山(妻女山)を襲撃し謙信を誘き出した所で、本隊が八幡原で待ち伏せする作戦を取ったが、謙信は作戦を読んでおり、霧が濃い夜のうちに全軍を山から下らせて千曲川を渡った。夜明けに霧が明けると、そこには謙信の大軍がゆっくりと姿を現した。そして、すぐさま両軍入り乱れての乱戦が始まる。別働隊に兵力を割いた武田軍は圧倒的に不利、しかも作戦の裏をかかれた衝撃は大きい!謙信は得意の車懸かりの陣で武田軍を攻撃する。謙信が信玄に突撃して斬りつけたという名場面が語られたのはこの時である。大混戦だったので謙信自身、剣を抜いて戦ったようである。また、信玄がこの時、何者かに襲われて傷を負った事も間違いない。しかし、実際、信玄に斬りつけたのは上杉家臣の荒川伊豆守というものだったらしい。この出来事が時代が経過するに従って、様々な書物等で脚色され、現在のような華々しい一騎打ちが描かれるようになったのであろう。

上杉謙信

戦のはじめに上杉謙信が「オンベイシラマンダヤソワカ」といいます。
これは毘沙門天の御真言(戦勝祈願みたいな意味みたいです。)
ちなみに上杉謙信の出家前の元の名前は「長尾景虎」で毘沙門天の使いの生き物は「虎」らしいですー
上杉謙信は景虎から政虎→輝虎と順に名前を変えています。 政虎は先の関東管領であった上杉憲政の一字から、 輝虎は室町幕府13代将軍足利義輝の一字からです。

護衛兵の十勇士について

父(昌幸)と兄(信幸)の補佐役として、真田軍団をつくりました。 実際はものすごい数の、人がいたようですが、 その中でも、能力の優れた十人が、十勇士です。
十勇士で、実際忍者だったのは、「猿飛佐助」と「霧隠才蔵」だけです、 護衛兵には、他に「槍の達人、穴山小助」「十勇士のまとめ役、海野六郎」しか、いませんでしたが、 他に「怪力の持ち主、三好清海入道」「清海の弟、三好伊三入道」   「釜十字槍の名手、由利鎌之助」「鉄砲の名手、筧十蔵」 「幸村の影武者、祢津甚八」「幸村の側近、知謀をふるった、望月六郎」 がいました。 補佐するはずだった兄(信之)が、徳川に味方しましたが、実際、兄(信之)は死んでいません、徳川軍が勝利した後、真田の処刑を助けたのは兄(信幸)ですから。徳川を三日間も説得したらしい。 ちなみに真田幸村と父(昌幸)は、豊臣軍。

補足
十勇士は実際はいなかったとの噂もありますが、三好兄弟などは元になるとうな人物もいたようです。 もっとも実話に近い小説、真田太平記では草の者という忍者組織があり、真田家をサポートしています。戦忍びや、情報収集のために育てられた絵の天才など、役割があったそうです。

↓これに対する意見
「根津甚八」のはずなのですが・・・。 あと、根津甚八が幸村の影武者と有りますが、他にも穴山小助、望月六郎なども影武者だったとか・・。また、大阪夏の陣では十勇士や幸村の家臣のほとんどが影武者になったため、家康は幸村の首を取った者が多くとても困ったと言われています。

長篠の戦いでの鉄砲三段撃ち

長篠の戦いでは織田軍が武田軍の突撃に対し、次弾装填に時間のかかる火縄銃を三段撃ちという部隊を三つに分けて入れ替わりながら絶え間なく撃つ戦法を使ったと言われゲームでも再現されているが、実際、この三段撃ちは最近の研究で疑問視されている。そもそも武田軍は自慢の騎馬軍団だけで攻めた訳ではないし、(ゲーム中では騎馬軍団が中心に攻める様子が再現されている)織田軍がおこなったと言われる3000挺鉄砲三段撃ちは鉄砲数は不確かな上、方法に関しても様々な点で疑問があり、信じないほうがよいだろう。武田軍の敗北の原因には、それまで美濃・三河・遠江を初め、織田・徳川軍に対して連戦連勝からきた慢心、さらに決定的な敵情誤認などが有ったとされている。しかし、鉄砲が何らかの形で使用されたのは確かだし、武田勝頼は、長篠の戦いで山県昌景など、父の代からの歴戦の勇将を多く失った。そして、この戦いで信長は勝利し、天下人への大いなる飛躍となったのは間違いない。

↓追加情報

そもそも鉄砲もそうですが、馬防柵の効果が大きかったとされていますね。 鉄砲三段撃ちについても三列に並んだわけではなく、 数人(3人)が一つの組になって、合図した時に誰かが発射できるようにしていた と言うほうが史実に近いと思います。 3000丁はおおげさでも、京都の細川家からも鉄砲を借りたとされており、 かなりの数と言われているぐらいですね。 そもそも武田勝頼にしてみれば、長篠の戦いを避けて甲斐に引き上げる手段を とった場合は撤退戦になるので追撃でかなりの被害が出たと仮定されています。 そもそも勝敗を決したのは徳川四天王筆頭の酒井忠次の鳶ノ巣山への撹乱作戦 が成功した時点でほぼ決していたとも言われています。