戦国無双完全攻略

武将説明

織田信長

戦国・安土時代の武将。信秀の次子。今川義元を桶狭間に破り、諸方を征略、1568年足利義昭を擁して上洛したが、73年義照をを追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、天下統一の歩を進めたが、京都本能寺で明智光秀に襲われて自刃。

織田信長は火縄銃などの新しいものを次々と取り入れていった武将です。信長はキリスト教の宣教師を安土城に度々招いていたそうです。ある時宣教師が信長に地球儀を見せたときに、信長は宣教師に「これは何だ?」と説明を求めました。宣教師は「地球はこのように球形になっている」と説明すると、織田家の家臣は何を言っているのか理解できなかったそうですが、信長は全て理解したと言われています。戦国時代に地球が丸いと言うことを知っていた日本人は信長だけだったようです。

真田幸村

父・昌幸が徳川と対立した時、寡勢で大軍を退散させて武名を上げる。 関ヶ原合戦の折には、兄・信之と分かれ、父と西軍について上田城で徳川秀忠を足止めした。西軍の敗戦で九度山に流されるも、時を待ち14年後、豊臣秀頼に応じて大坂入城。冬の陣では「真田丸」を築いて知略と武勇を発揮。家康からの信濃1国を与えるとの誘いを断って、最後まで戦場に身を置いた。 夏の陣、茶臼山の戦いでは家康の旗下まで突っ込むこと三度、最期まで家康を恐れさせた。

明智光秀

斉藤道三、朝倉義景に仕える。足利義昭が信長を頼る際に、間の工作をし上洛に尽力した。以後、信長の家臣になり、近江滋賀を与えられて坂本城主となる。 その軍略の才が重用され、出世。日向守に任じられて丹波計略へ。丹波を征服すると、亀山城主に。休む間もなく信長の甲州攻めに従軍、戻って安土城において家康らの接待役を務めているとき、西国出兵を命じられた。 亀山城を出陣すると本能寺を急襲し、信長を自刃へと追い込んだ。

前田慶次

前田利久の養子。前田家を利家が継ぐと流浪の身となるが、後に数々の戦で武名を轟かす。愛馬・松風に跨り、長槍を振り回して一騎駆け。その戦いぶりがあまりに荒々しく、秀吉の九州遠征に参加を許されなかった。上杉景勝の右腕・直江兼次にほれ込み、上杉が佐渡の本間を攻める時、助っ人として越後へ。後は京へ戻って風雅三昧。家康が上杉討伐軍を起こすと、再び上杉軍に。最上との戦いで、 たった8騎で敵本陣を突いて四散させたという。

服部半蔵

家康の父・広忠の代より二代に渡って仕えた忍者。 家康と同い年で16歳のとき伊賀者数十名を指揮し、三河宇土城に火をかけて功があったという。遠州掛川城攻め、姉川の戦い、三方ヶ原、武田勝頼迎撃と歴戦。本能寺の変の折、孤立無援の窮地にあった家康を堺から岡崎まで警護。 家康の三大危機の一つ「伊賀越え」である。以後、家康の忍頭として活躍。家康が関東に国替えになると、江戸城西門に屋敷を与えられた。

くのいち

「戦国無双」オリジナル。命がけのスリルを求めて、戦場に舞い、敵を翻弄する。勝手気ままな女忍者は、はたしてどんな術を見せてくれるのか。 彼女の立場、目的は、いまのところ謎。オープニングムービーでは幸村をかばうシーンが見られるが、その関係もまた謎である。

武田信玄

甲斐の虎と称せられた英傑。孫子兵法に通じ、その象徴である「風林火山」を旗印とする。父・信虎を追放して家督を奪取すると、戦国最強といわれた騎馬軍団を率いて勢力を拡大。信州豪族と結ぶ宿敵・上杉謙信とは、川中島で5度戦って退かず、信州全域の支配を固持した。駿河に攻め入って今川家を滅亡に追い込むと、上洛を目指して西進。 三方ヶ原の合戦では織田・徳川連合軍を翻弄して圧倒的な勝利を収めた。

上杉謙信

越後の龍と恐れられた戦国屈指の驍将。山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、のち入道して謙信と号す。戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。宿敵・武田信玄と生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという正義の人でもある。

お市

織田信長の実妹。尾張にいた頃より、美貌の持ち主として広く世に知られていた。二十歳を過ぎ、江北の鷹と呼ばれた若き英雄・浅井長政と結婚、信長と長政の同盟を実現させる。その後、長政が信長に反抗する気配を見せると、信長に危機を知らせて窮地を救った。信長は長政の裏切りに激怒し、浅井家の本拠・小谷城に苛烈な攻撃を加えたが、お市は夫・長政のそばを最後まで離れようとはせず、落城まで共に戦い続けた。


雑賀孫市

紀伊の雑賀衆出身。信長が一揆衆の本拠・伊勢長島を攻めたとき、 一揆衆に味方したのが雑賀衆である。鉄砲隊を組織し、織田軍をいったんは敗退に追い込んだほどであった。鈴木重秀とも重朝とも説があるが、不詳。重秀は、石山合戦で100人規模の鉄砲隊を率いて織田軍を苦しめた。本願寺との間に立って山崎の戦いで活躍、後に秀吉の紀州攻略にも参陣。重朝は関ヶ原西軍で伏見城攻略に功あるも、政宗に身を寄せ、後に家康・頼房臣下。

森蘭丸

美濃の森可成の子、長定。森長可の弟。兄・長可は伊勢長島一揆の制圧に功あって20万石を拝し、さらに秀吉に従って長久手の合戦に参陣、若くして散った。 長定は、幼少から織田信長に近習し、才を認められて重用される。近江500石を与えられ、武田勝頼死後は美濃岩村城5万石を与えられている。信長に従って本能寺に寄宿した際、明智光秀に急襲され、果敢に奮戦するも、弟の力丸、坊丸とともに、信長に殉じた。ときに18歳であった。

阿国

川原に小屋をかけては各地を回ったという。『時慶卿記』中で、慶長5年、 後陽成天皇の女御近衛氏のために国と茶という二人が「ややこ踊り」を演じた、との記事が元とされるが、仔細は不明。本作では、出雲大社の巫女だった阿国が、本殿修繕費用の勧進のため、戦乱の中、諸国巡業の旅に出ていた、という設定である。

伊達政宗

伊達輝宗の子。幼いときに病気で右目を失い、「独眼竜」として名を馳せた。父の死後、郡山合戦、摺上原合戦に勝利し、会津まで勢力を拡張。最上義光との確執や家督争いなど幾多の障害を乗り越えて、奥州全土に領土を広げる。 勢いに乗って南下せんとする政宗の気負いとは裏腹に、天下の大半は豊臣秀吉の手中に収まり、やがて徳川家康が幕府を開くに至って乱世は終焉を迎える。それでもなお政宗の野望は衰えず、奥州の地から天下を睨み続けていたという。

石川五右衛門

素性は明らかではないが、19歳で忍術の全てを修めた。 百地三太夫の妾を殺し、三太夫の妻と逃亡したという話も伝えられる。のちに盗賊の頭目となって、堺や京で暴れまわった。時の関白・豊臣秀吉が有した千鳥の香炉を盗もうと大坂城に潜入したが、千鳥が鳴いたために見つかったという。一族郎党とともに捕らえられ、京都三条川原で釜茹での刑に処された。後に、歌舞伎などで脚色され、大盗賊とされた。

濃姫

織田信長の正室。生没年不詳。1535年(天分4)生まれの説がある 父は斉藤道三。濃姫とは、美濃から来た姫という意味の略である。 「美濃国旧記」によれば、本名は帰蝶という。 斉藤道三と尾張の織田信秀は、数年来争っていたが、1548年 (天分17)平手政秀の斡旋で和議が成立した。 その証として翌年春に、濃姫が信秀の長男信長に嫁する。 典型的な政略結婚であるが「信長公記」などには書かれていない。 ふたりの間に子はなかった。嫡男の信忠(母の生駒氏)が生まれた 1557年ころには、すでに没していたという説、 本能寺の変で信長とともに死んだと言う説などがある なぞの多い女性だ。




佐助氏提供

【今川義元】

戦国時代の武将。氏親の子。駿河・遠河・三河地方に勢力を振う。織田信長と戦って桶狭間に討死。

【本田忠勝】

徳川家康四天王の一。通称、平八郎。武勇の誉れ高く、伊勢桑名城主となった。

【徳川家康】

徳川初代将軍。松平広忠の長子。幼名竹千代。初名元康。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、1590年関八州に封ぜられて江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。1600年関ヶ原の戦で石田三成らを破り、03年征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開いた。将軍職を秀忠に譲り大御所と呼ばれた。07年駿府に隠居後も大事は自ら決し、大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府を260余年の基礎を確立。しごう、東照大権現。法号、安国院。

【滝川一益】

柴田勝家に推挙されて織田家に仕える。鉄砲という新技術、調略の才能を見こまれて、木下藤吉郎(秀吉)が美濃方面を担当したのに対し、一人で伊勢を攻略していく。以後、織田家で伊勢にかかわる合戦や、東日本方面の合戦に関与。北畠家攻略、長島一向一揆、長篠の合戦、そして、信忠の副将として戦った甲州武田攻略の勲功で、望んでいた茶器ではなく上野一国と関東管領の地位を与えられる。ここまでが栄光の日々。  本能寺の変後、運命は大きく変わる。上野国人衆に本能寺の変の事実を教え、「これからどうするも自由」と言ってのけてはみたものの、造反者は結局出てしまい神流川で北条氏直に敗れる。清洲会議に出席もできず(出席したという説もあるがそれでも発言権はなかった)、柴田勝家に味方するも仲がよろしくない秀吉の疾風の如き攻撃に敗れる。一命は助けられ、続いての小牧・長久手の戦いにて秀吉軍で戦ってみたものの失態をさらしてしまい、程なく失意のまま死亡。

【村上義清】

信濃に進出してきた武田信玄を2度までも破った武将。一度目のときは上田原において地の利を活かして勝利を収め、信玄の傅役・板垣信方や甘利虎泰といった武田方の名将を何人も討ち取った。2年後、少しばかり成長した信玄をも破り、横田高松を討ち取っている。  信玄にとってこの2度の合戦は試練であった。3度目は真田幸隆の謀略によって戸石城が落城。村上系の武将が悉く武田に降り、本拠葛尾城から落ち延びざるを得なくなったのである。  上杉謙信のもとへ亡命した義清は川中島合戦をはじめ上杉家で活躍。念願であった故地奪還を果たせぬまま異郷で息を引き取る。故地奪還を果たしたのは子・国清のときであった。

【武田義信】

善徳寺の会盟により今川義元の娘と政略結婚する。この時期にこれが非運の始まりとは誰も知る由がない。  桶狭間合戦後、今川家を継いだ氏真が軟弱なのを見て取った父・信玄は駿河攻撃を決意する。これに「不義」と言って反対したのが義信である。二人はこの後対立、信玄は義信を幽閉した。次いで義信は切腹させられるのである(病死という説もある)。  信玄はこれにより、「親不孝、子殺し」の汚名を着るのである。

【石川数正】

三代に渡って松平家に仕えていた家柄に生まれた数正は、徳川家康とは人質時代も一緒だった「竹馬の友」。長じて西三河の旗頭となり、今川との人質交換によって嫡子・信康を取り戻したり、姉川の合戦で一軍を率いたり、長篠合戦で織田軍の援軍を引き出させたりして、徳川家重臣として活躍した。  しかし、賤ヶ岳の戦いの後、主君・家康の命で羽柴秀吉に謁見した所から運命が狂い出す。そこで、「人たらし」秀吉から想像を絶する接待を受け、少し秀吉にたらされてしまう。続く秀吉と家康の戦、小牧長久手の戦いにおいては、穏便派として家中で孤立。やがては「秀吉に内通しているのではないか」と噂される。それに堪らなくなったのかどうかは定かではないが、1585年11月突如秀吉の下へ出奔。家康はこのことを重視し、「数正が出奔した以上、当家の軍法はすべて秀吉に知れ渡ったであろう」と急遽軍法をすべて変更したほどであった。数正自身はその後、歴史の表に出ることなく静かに死んでいる。

【織田信忠】

1576年に信長から尾張・美濃と岐阜城及びそこに貯えられた財と家督すべてを譲られる。天下布武事業のみが信長に残った形となり、信長は安土城を築くこととなる。その後は信長の名代として松永久秀征伐、石山本願寺攻め、播磨計略、甲州武田征伐に出陣を重ねる。家臣が御膳立てしたとよく言われるが、家臣を使いこなす能力は十分にあり、二代目としては一応合格であった。エキセントリックな父とは違い普通の人といったかんじで、家臣からはそこそこ慕われた。  しかし、本能寺の変にて父が急死。二条御所にいた信忠は父の救援に赴こうとするが果たせず。ここで単身逃亡し生き続けていれば織田家及び天下布武事業は何とか継続しただろうが、信忠は死を選んだ。誠仁親王を脱出させ、織田三法師を脱出させ、討ち死にした。

【小山田信茂】

藤乙丸・弥三郎・信有。左兵衛尉、越前守。武蔵多摩が発祥の地で、甲斐都留郡に土着したという。小山田信有の子。甲斐武田氏家臣。弘治三年(1557)八月の川中島の合戦で初陣。また永禄四年(1561)の第四次川中島の合戦では側面からの攻撃を担当した。関東攻めでは度々先陣を務め、永禄十二年(1569)には北条氏照軍を撃破して、武田軍中最強と言われた。 信茂は兵器の研究などでも貢献を見せており、投石の道具などを発明している。元亀三年(1572)の三方原の合戦では先鋒大将。天正三年(1575)の長篠の合戦では、左翼の先鋒を務めるが、家中で最大の犠牲を出している。 天正十年(1582)、織田軍が信濃甲斐に侵攻すると、百名足らずとなって落ち延びる武田勝頼を岩殿城へ迎えるとしながら裏切り、自刃に追い込んだ。織田信忠に謁見するも裏切りを認められず斬首された。

【内藤昌豊】

源左衛門・祐長・昌秀。修理亮。工藤虎豊の次男。甲斐武田氏の四名臣の一人。鎌倉期からの名族で甲斐巨摩郡から伊那の一部を支配していた地頭・工藤氏の出自。武田信虎の臣であった父が誅殺された際に出奔している。 天文十五年(1546)、武田信玄に工藤氏の旧領を安堵されて復帰。騎馬五十騎を与えられ侍大将。譜代家老衆。信玄の主要な合戦にはほとんど従軍しており、目覚しい働きを見せたが、信玄から 「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」 と一通の感状も貰わなかったという。昌豊は絶大な信頼を寄せられており、武田信繁と共に 「武田の副将軍」 と称された。永禄九年(1566)以降は上野箕輪城攻略後の城代となり、長野氏の旧臣二百騎を組下とした。西上野七郷の支配頭。永禄十二年(1569)には信玄の命により、甲斐の名族で内藤虎貞の死後断絶していた内藤氏の名跡を継ぎ修理亮を名乗った。 元亀二年(1571)に北条氏康が死去し、跡を継いだ氏政が甲相和睦を申し入れてきた際には、信玄から全権を与えられて交渉をおこなってもいる。